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奉天を制圧したことにより、会戦の勝利は日本側に帰したとも言えなくもないが、ロシア軍にとって奉天失陥は「戦略的撤退」であった。100年前のナポレオン戦争でもロシア軍が採用した伝統的な戦法であり、欧米のマスコミも当初はこの撤退を「戦略的撤退である」と報じていた。さらにロシア軍と日本軍ではの補給能力に格段の差があった。しかし、クロパトキンが罷免されたことでロシア軍が自ら敗北を認めた形となり、国際的にもそのように認知されることとなった。代わりに総帥として就任したリネウィッチ将軍は、軍隊秩序を乱した者を処罰していくことによって、軍の建て直しに腐心した。ロシア軍は敗北を認めた上で、やがて日本軍に反撃することを意図していたと言える。 ロシア側は奉天会戦に敗北したとは言っても、ロシア陸軍(現役兵の兵力は約200万人で、大日本帝国の約10倍)はいまだ半分の動員しか行っておらずまだ健在であり、またインド洋にはバルチック艦隊が極東への航海の途上であり、陸海軍ともに継戦能力はまだ十分にあった。 奉天会戦勝利の報に日本中は沸き返り、さらに戦争を継続すべしという声が上がっていた。大本営は、奉天会戦の勝利を受けてウラジオストクへの進軍による沿海州の占領を計画し始めていた。また、4個師団(第13・第14・第15・第16師団)を新編し、講和圧力のために、樺太島へ上陸・占領した。 これを知った大山巌満州軍総司令官は兒玉満州軍参謀長と協議し、兒玉を急ぎ東京へ戻して戦争終結の方法を探るよう具申した。目先の勝利に浮かれあがっていた中央の陸軍首脳はあくまで戦域拡大を主張したが、日本陸海軍の継戦能力の低さをよく理解していた海軍大臣山本権兵衛が児玉の意見に賛成し、ようやく日露講和の準備が始められることとなった。 日露の講和を促そうと、アメリカ合衆国大統領のセオドア・ルーズベルトが駐露大使のマイヤーに訓令を発し、ニコライ2世に謁見させたが、バルチック艦隊の実情をよく知らなかったロシア宮廷には、「バルチック艦隊が思い上がった日本に鉄槌を下すであろう」という希望的観測から講和を渋る声があった。そのため、いったんは日露講和は頓挫する。 しかし、5月日本海海戦において日本海軍が完勝すると、アメリカ合衆国の調停によって両国は交渉の席に着き、9月、休戦が成立。10月、ポーツマス条約が批准され、日露戦争は終結した。 一般的には、奉天をFX し、ロシア軍を敗走させた日本陸軍が勝利した戦いとして認識されている。しかし、日本軍が十分な追撃を行えず、ロシア軍に決定的な損害を与えられていないため、「日本側優勢の引き分け」に近いという評もある。言い方を変えれば、日本軍がロシア軍の戦略的後退に誘い込まれなかったため、ロシア軍の戦術的敗北がそのまま結果として知られるようになった戦いとも言える。もし日本軍が追撃戦に移ったとしたら大敗北したことも考えられる。 近代日本陸軍が得た勝利の内で最も苦いもの[5]であった。 摩天嶺の戦い(まてんれい-)は、日露戦争中の戦闘の一つ。摩天嶺に布陣していた日本陸軍第1軍の第2師団に対してロシア陸軍東部兵団が攻撃をしかけることで起きた。 ロシア軍は日本軍の約2.5倍という大兵力で摩天嶺西方から砲撃を仕掛けたものの、第2師団は既に陣地を構築していたため、頑強に抵抗した。日本陸軍から側面攻撃を受けたこともあって東部兵団は撤退するが、その際に司令官のフェードア・ケルレルは砲撃に倒れた。 摩天嶺の確保に成功した日本陸軍は日経225 への足がかりを保持した。 遼陽会戦(りょうようかいせん)は、日本とロシアが満州、朝鮮半島などの権益を巡り、1904年(日本元号で明治37年)に勃発した日露戦争における会戦。同年8月24日から9月4日まで行われた。両軍の主力がはじめて衝突した戦いで、ロシア軍は15万8000の兵を展開して防御網を展開し、日本軍は12万5000の兵で、計28万の兵が衝突。鴨緑江会戦と並び、日本軍にとってははじめて近代陸軍を相手にした本格的会戦であった。 遼陽は中国東北部、遼寧省の都市で、当時は人口6万のハルビンに次ぐ南満州の戦略的拠点。地理的には平野で、旅順からハルビンへ至る東清鉄道が走る交通の要衝でもあった。 日本の参謀本部では、川上操六、児玉源太郎らが対露戦略を構想していた。日本軍はロシア軍がシベリア鉄道などを利用して兵力を資産運用 してくる以前に積極的に朝鮮半島に進出し、ロシアの主力軍が集中する以前に、短期決戦で同地を確保する作戦を立案。満州へ向かう主力戦と、ウラジオストックへ向かうウスリー支作戦による分進合撃を構想し、遼陽は奉天、海城、鉄嶺らとともに進撃目標の1つとされた。 ロシア側でも開戦以前から基本戦略が存在し、本国から兵力を輸送して遼陽付近を第一線に兵力を集中させ、ハルビンを退路に本国からの増援を待ちつつ攻勢する作戦を構想。開戦直前には陸軍大臣のアレクセイ・クロパトキンが満州軍総司令官として赴任する。 1904年2月9日、日露戦争が開戦。日本側は第12師団の仁川上陸(朝鮮への威圧的上陸)、旅順港を封鎖しての黄海の制海権確保に成功し、遼東半島からの上陸が可能になった。第三軍(乃木希典)が旅順攻略を担当し、基本戦略通りの分進作戦を実施し、第一軍(黒木為驕jが朝鮮半島の大同江に上陸して5月1日に鴨緑江会戦を経た後に北上。第二軍(奥保鞏)は5月5日遼東半島の塩大澳に上陸、旅順要塞孤立化のための南山攻略を行った後に大連を占領、5月30日東清鉄道に沿って北進し、得利寺、大石橋などでロシア軍と戦闘を繰り返しつつ北進する。第四軍(独立第10師団と呼ばれていたが、後に第5師団を加えて軍に編成、野津道貫中将指揮)は中間地点の大弧山から投資信託 し、遼陽を目指す進撃を開始、柝木城を攻略し、遼陽を包囲した。 日本側の制海権確保でロシア側は基本戦略を変更し、クロパトキンは兵力を直接遼陽へ集結させ、日本軍第一軍が迫る国境地帯の鴨緑江へも展開する。また、このほかに旅順救出の部隊を編成し、兵力を出すも現場指揮官の戦意が乏しかったため、日本軍第二軍の兵力の見誤りからに遼陽に引き揚げてしまう。 日本軍は8月にほぼ遼陽に外国為替証拠金取引 し、東から第一、第四、第二軍を展開。第一軍が太子江を渡河して東を迂回し、ロシア軍を側撃する作戦を計画だった。8月3日秋山好古少将率いる騎兵第1旅団(習志野)は、敵情の偵察を行うように命じられ、遼陽会戦前まで敵情の偵察任務に赴いた。この秋山少将率いる部隊は騎兵第1旅団を中心とし、そのほかに歩兵第38連隊(伏見)、野砲兵第14連隊、騎砲兵中隊、工兵第4大隊第3中隊の複合型集団を構成しており、秋山支隊と呼ばれた。 8月26日、第一軍は紅沙嶺へ進攻し、同日午後には弓張嶺において第二師団が白兵での夜襲を敢行し、ロシア軍を駆逐し、第一線陣地であった同地を撤退させる。第二軍も8月25日に進撃し、ロシア軍を後退させる。28日には満州軍総司令部は第二軍に標高209メートルの制高地でもある首山堡陣地の攻略を命じ、30日には陣地への攻撃を開始するが、戦況は行き詰る。30日深夜には第一軍が連刀湾から太子江を渡河して遼陽を迂回し、梅澤旅団とともにロシア軍第二陣地を攻撃。ロシア側は第一軍の側撃を予期していたものの偵察の不備もあり日本軍の行動を捕捉できず、各軍団からの増派部隊で応戦した。第一軍は饅頭山を確保し、主力戦ではロシア側の兵力抽出の影響もあり、9月1日には首山堡を確保する。 9月4日、クロパトキンは退路の遮断を恐れ、全線に奉天への撤退を指令した。日本側は兵力消耗や連戦の疲労もあり追撃は行われなかった。 日本軍は、ハルビン攻略が望めなくなったことから、基本戦略の変更を余儀なくされた。遼陽会戦は日本軍の遼陽入城に終わったが、クロパトキンは戦略的後退であると主張し、両軍が勝利宣言を行う。死傷者は日本側が2万3500、ロシア側が2万あまりで、両軍あわせて4万人以上にのぼった。 日本軍では、8月31日に遼陽会戦の首山堡争奪において、橘周太少佐が戦死し、海軍における旅順口閉塞作戦において戦死した広瀬武夫少佐とならび、戦後に軍神とされた。